二度目三井寺

 で,大津に到着。前回逃した膳所城に行こうかとも思ったんですが,大津のレンタサイクル事情などを総合考慮して,三井寺に行くことにしました。
 前回は途中で退散しておりますので,二度目の三井寺になります。前回とは異なり,今回は徒歩で乗り込みます。

駅前看板。競艇場はちゃんと書かれてます

 久々の三井寺。序盤のお堂は既に一度見ているので,今回は軽く流します。


 前回は金堂で力尽きたので,ここからが本番になります。前回の記事を読んでいると,寺社には全く興味がないかのような書きぶりですな(そのくせ寺社をまわってるのだからわけわからんけど)。当時よりは寺社マニア度は高まったのではないかと思います。ただ,知識レベルはあいかわらず全く追いつかず,基本的にはWikipedia先生におんぶだっこなのでありました。

 さて,金堂の裏へ。
 閼伽井屋という建物。建物よりも,中の井泉が天智・天武・持統の3帝の産湯に使われたってんだから,かなりの歴史ものです(ただ,かなり眉唾もののような…)。あと,悲しいのは,天智天武持統3帝についての知識が完全に薄れていることであります。
 まあ,いずれにしても重文指定されている建物が1600年建立の歴史あるものであることは間違いないところでしょうし,この井水の存在がこのお寺の名前の由来になったことからも,この水が大事にされていることはそのとおりなんでしょうね。それにしても,金堂とこの水が湧出している場所の位置関係はこれでよかったんでしょうか。
 あと,「日本最古の庭園」ってのも正しいのでしょうか……。






 それから,熊野権現社,弁慶の引摺鐘を見て行きます。
 そういえば,弁慶って僧兵なんだよな。弁慶って乱暴者でいろいろやらかしてるのに,最後に義経のために戦ったことでそれまでの悪行がなかったことにされてるんだよな。それにしても,仏教界的にはかなりの問題児な気がするんですが,問題児の被害者的立ち位置の寺院がこうして厚遇してしまっていいんでしょうか。


 続いて,重文の経蔵。てっきり中の輪蔵が重文なのかと思ってあらためて見てみたら建物の方でした。1602年に毛利輝元がここに移したってのがまた興味深い。時期的に関ヶ原後の減封混乱期だよな。それと関係がありやなしや。
 あわせて,三重の塔は1601年に奈良からここにもってきたようで,むしろこの時期に三井寺が拡張政策?をとっていたのでしょうか??


 で,護摩堂,潅頂堂,大師堂といろいろ詰まった区画。この書き方で宗教に対する無理解が分かりますね。
 ここは大師堂に直接お参り出来ないスタイルのようです。いわゆる開山堂にあたるものを直接お参り出来るようにするかしないかってどういうルールで決めてるんだろうか。
 あと,四脚門をでたあとに護摩堂等々の解説の木板が登場します。本来的には四脚門から入っていくのが正式ルートだから仕方ないんでしょうが,金堂から行くルートが三井寺公式参拝ルートなので,できればそっち側の人向けに解説板をおいてくれないものでしょうか……。
 それにしても,四脚門まわりの白壁と石垣が,まさに城門と城壁のような姿です。鉄砲狭間がついてないことに違和感があるくらいの代物。これがいつからあるのか,昔はどういう姿だったのかは知らないですが,大規模なお寺ってのは凄いですな。










 続いて,微妙寺。
 いかんせん仏教について詳しくないのですが,どうも三井寺には五別所と呼ばれる5つの別所があるようです。「別所があるようです」と書いたところで,別所とはなんぞや,という話になるわけで,これまでイメージしてきた別所ってのはもとの寺院とは遠く離れた場所にある支店的な存在で,三井寺境内に三井寺別所があったもんだからもはや訳も分からず思考停止でありました。どうも,別の所から山内に移されたようですね。なるへそ。
 それでも本体に吸収されたりしないんだろうか。で,五別所のうち2つ,尾蔵寺と常在寺は廃絶しているようですが,三井寺山内で復興させることってのもできないものなんでしょうか。このあたりの仏教界の仕組み制度がよく分からないな。
 それはさておくとして,この日は十一面観音像特別開帳中でした。いやはやラッキー。三井寺は中まで上がらせていただけるので嬉しいですね。上がると時間を消費するので,このあとに競艇が控えてる身としては痛し痒しな面はありますが。


 で,このあとはいろいろな石像が並びます。
 三井寺みたいな有名なお寺に石像を奉納しようと思ったらどういう手続とどれだけのお金が必要なのだろうか……。でも,童地蔵って初めて見たような気がしますが(初めてかどうかに関しては自信ゼロですが),おもしろい造型ですね。これはお地蔵様をかたどったものなのか,それとも別の,亡くなったお子様とかそういうものをかたどったものなのか……。


「ありがとうございます」
という杭がありますが
意味はあるのかないのか

 で,毘沙門堂。これは廃絶された尾蔵寺から移されたもののようです。なぜ尾蔵寺でこれだけ残ったのか・これだけここに移されたのか,いろいろ気になります。あと,看板を見る限り移されたのはお堂だけで,中に毘沙門天の何かは残っていなさそうです。


 続いて,観音堂へ向かいます。観音堂は階段をのぼった先にあります。
 さらっとお参りするだけにしましたが,この観音堂まわりだけでも十分見所がいっぱいですな。さすが有名な三井寺です。もうちょっとマシな感想を書けるようになりたいと思いつつ,気持ちは半分競艇場に向かっている不届きものだったのでした。

十八明神社 観音堂へ 階段の途中から競艇場方向を臨む 手水
観音堂 元禄2年再建とはいえ,
十二分に歴史のある建物だよなあ
堂内 けまん
当然変換されない
鐘楼。中を覗けるのが観光客には嬉しい 観月舞台
百体観音堂
なぜここまで
写真が曲がったのかは
我ながら分からない
よく分からないキャラ
見たところ鬼に見えますが…
右手に持ってるのはなんでしょう?
中には,多くの観音様が祀られております 観月舞台脇から見るのは月ではなく競艇場

 最後に,別所水観寺。ここは工事中でしたが,お参りスペースはあけてありました。
 ここの解説を読んで知ったこと。まず,別所は民衆との交流を目的としていた,ということ。平安仏教っていうと皇族貴族相手の宗教というイメージでしたが,鎌倉仏教やその後の新勢力の登場で,民衆も布教対象とすることになったのかな。歴史的経緯を全く知らないのでいい加減なこと書いてますが。
 あと,三井寺って豊臣秀吉と対立してたんですね。Wikipediaによると,闕所扱いとされた理由は不明らしいですが……。

草津びわこ競艇

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