ひとよし湯よし城よしその3

史跡 人吉城 絵図


 と,いうわけで,見えてきました。人吉城といえばこれ!武者返しのある,はね出し石垣であります。

 武者返し自体は,なんとなく誰でも思いつきそうなものではありますが,実際にこれを石垣として設置・運用しようと思ったらことはそう単純ではないのでしょう。なんせ西洋式建築技術ですからな。西洋だとどこらへんの城郭で用いられているのでしょうか。一回見に行きたいもんです。西洋と一口に言っても英仏独,どこなんでしょうね。持ち込んだのは誰なんだろうか。夢は広がりますね。
 にしても,人吉城の石垣が実際に戦争でどうなったかは知らんけど(たぶん使われてないんだろうな),五稜郭は戦争に巻き込まれていたわけで,武者返しの効果のほどはいかばかりだったのでしょうかね?下手すると下からのぼってくる人が掴みやすいだけの出っ張りになりかねないような……。
 ちなみに,このはね出し石垣,この一角にしかないわけですが,事実問題としてここだけだったのでしょうか?それとも,ほかの部分にもあったのに崩されたのでしょうか?水の手門からの侵入防止っていう目的は非常によく分かる訳ですが,ここだけだとどちらかというと実験的な(あるいは消失した長櫓を再建する金銭的余裕が無いことをごまかすための)石垣だったのかな,という気もするのであります。と書いてて,ほかの部分にはちゃんと櫓があったから作る必要がなかったのだな,というごく当たり前の結論に到達いたしました。おそまつ。

見えてきた!! 案外該当部分はわずか 遠目にはかえってのぼりやすそうですが 近づくと,そうでもない 苔がかった石垣ってよいですね
相良神社方向
こっちは普通の石垣
よく分かる,解説
ふと気付いたのですが,人吉城の解説は平成4年3月で,
この武者返しの解説は平成5年3月。
1年のブランクがあるんですな。
3月という時期も時期ですし,予算的な香りがぷんぷんします
なんにせよ,こういう解説文はありがたいですね
逆向きの写真
排水もばっちり
さらに近づいてみました
こうやってみると,乗り越えるのは大変!
競輪マネーですよ!
あと,(姫路城や松本城,大阪城,江戸城ではなく)
「五稜郭や首里城と並び」という表現が面白いですな


 さて,石垣に感動してばかりではいけません。向かいにあるのが水の手門。川からの物資搬入はここからだったわけですな。
 参勤交代時は青井阿蘇神社に参詣してから出て行ったらしいですが,それ以外の出立もここらしいです。いやあ,こういう河川交通を見ると,なんとなく胸が高鳴るのはなぜなんでしょうかね。
 この水の手門まわり(実質的にははね出し石垣まわりなんだと思いますが)をがしっかり整備されていて,見学するこちらとしては非常にワクワクします。ここに船を停めて,ここから城内に物資を運び込んだのか〜,という妄想がかき立てられるのであります。

間米倉跡の解説
これは平成15年3月
配置図 間米倉から水の手門方向 解説 絵図 水の手門の土塀
特に狭間もありません
横から 川の方向に向かう 正面から川を見る 外に出て球磨川を見る
今の川の状況だととても船を停められそうにないので,
昔は川の流れも違ってたんだろうな
門の石垣 逆側
石垣が結構高いです。門も結構大きかったんでしょうね
水の手門からはね出し石垣方向 こっちの解説は平成19年3月作成です
18年4月に100名城認定→3月に完成の流れですな
復元模型には狭間があるような…… 水の手門から入った場所から,
間米倉跡の方向を見る


 そして,反対側には突然門が登場。石垣しか残っていないような雰囲気満々の城跡に突然木の門が登場するのでびっくりであります。
 この門が,先ほど見た堀合門をもとあった土地に復原したもの。殿様の住まいの裏口にあった門らしいです。見たところ特段の説明もなく,復原して力尽きたんでしょうか。単に解説看板見落としただけの可能性が高いですが。
 そして,その横には米倉の礎石が並んでおります。予算がつけば復原するのかな。でも,ここはこの殺風景さが美しい気がするので,このままでいいかなー。まあ,熊本県的にはまず熊本城なんだろうけど。

堀合門 米倉の解説 米倉跡 米倉前からはね出し石垣方向


 さて。人吉城といえばはね出し石垣が有名です。おそらくこれがなかったら100名城入りも危なかったかと思います。
 しかし,世の中期待していなかったからこそ驚きと感動が大きいということはよくあります。そして,ここがまさにそうでした。いやですね,ほんと,すごい。びっくり。と思ってあとで自分が撮った写真を見直したら数が少なくてがっかりしたわけですが,それもこれも時間制限+あまりの姿に感動して写真どころではなかったからなのであります。ほんと,この御下門跡とそのまわりの石垣・階段はすごいスケール。
 どういうお城が好きなのかは人それぞれなのでしょうが,僕は備中松山の石垣のように,自然と城郭が一体化した城跡は大好きです。そこで,この御下門であります。当然門は復原されてません。で,門に向かうと奥から見えるのは高石垣と,石段です。そして,折れ曲がって正面を見ると……自然と一体化した階段が登場します。写真じゃ伝わらないなあ,と自分の写真を見ながら思うのですが,これは凄い。素晴らしい。自然と人工がマッチした要害であります。熊本城の人工的な石垣美も素晴らしいですが,こっちも素晴らしい。
 人吉城の案内図だとあまりこの門と石段が強調されてませんが,これは是非もっとアピールしてほしいなあ。

だんだん見えてくる石垣
紅葉が進みつつあるのも綺麗ですな
御下門の解説
本丸・二の丸・三の丸への唯一の登城口にあった門
正直,この門は復原してほしくないなあと思うのは
おいらの勝手な思いなんでしょうが…
石垣も美しい
そして,これ!!
雄大!
逆側から門の跡地をみる まさに自然と人工が一体化した,これぞ城跡という感じであります


 さて,興奮冷めやらぬまま三の丸に。
 特段解説が見つからず,本当にここが三の丸なのか不安になります。まあ,そんなことは気にせずぐるっと見回します。

三の丸 二の丸に上がる階段 三の丸 二の丸方向 三の丸


 三の丸から二の丸に上がるところは,お手本のような枡形虎口。中御門跡であります。
 先ほどの自然を使ったところとかは違う,人工的なもの。ぐいっと直角に曲がります。

上がっていく 当然ここでぶつかる 後ろを向く 上から見下ろす感じ


 で,二の丸です。
 かつては御殿やらなんやらがあったのだと思いますが,特段何を発掘するわけでもなく。ここから三の丸を見下ろすと,三の丸の様子が分かるので素晴らしい。
 それにしても,上から見下ろす三の丸の平坦さが気持ちいいです。

二の丸の様子
特段開発は進んでいないので単なる林と野原であります。
こっちが本丸 中御門跡の虎口を見る
三の丸方向 遠くに市街地 解説 死にかけの二の丸表記 本丸方向を
平坦!!な三の丸 埋御門を横から 埋御門からみる二の丸 井戸


 さて,いよいよ本丸に乗り込みます。
 本丸に向けてはただまっすぐ石段を登るのみ。もはやここまで来たら虎口だとかそういうみみっちいことは言わないのであります。まあ,解説を読むと宗教施設しかなかったらしいですから,特段防御をどうこうする必要なんてありませんね。

さあ行こう! 二の丸を見下ろす 解説
平成5年3月作成
天守はともかく,御殿もなく,護摩堂や太鼓屋,
山伏番所などがあったのみ
崩れかけの案内
できたのはいつなのでしょうか
本丸全景

降りる 再度御下門跡に 御下門跡


 というわけで,本丸まで攻略完了。
 はね出し石垣以降の唯一の復原遺構である堀合門が,「よくぞ復原した!」というより「なんでこれだけぽつんと復原したの?」という雰囲気なのは,人吉城跡のまとまった雰囲気の良さ故なのであります。

 というわけで,階段を下りていきます。時間があればもっとじっくり三の丸当たりを散策したいところなんですが。

 さて,下まで降りて,さらに右(東)に向かいます。とりあえずぐるっと一周すれば中世人吉城(原城)の堀切等々の遺構も見られるだろう,という腹づもりであります。ぐふふふふ。

 というわけで,しばし進むと,谷口舟渡跡に到達。
 いまいちどこがどう番所だったのかはよく分からんのですが,とりあえずここに船が入ってきて対岸の商人町・侍町との交通に使われていたそうであります。
 それはいいのですが,解説文によると「梅花の渡は対岸五日市町裏の渡し場のことである」らしいのですが,他方で「ここは梅花渡跡です」という看板が立ってるわけです。お馬鹿NPには意味が分かりません。

後ろを振り返る 谷口舟渡跡 ここは梅花渡跡らしい…? 清水観音跡へのぼる石橋 渡跡
階段を下りる気力も時間もなく


 だんだん時間も気になってきたので,慌ただしく進みます。
 続いては石橋を渡って清水観音跡。地図によっては「観音堂跡」となっております。お堂はあったのでしょうか。いずれにせよ,お堂も観音様も現存していないのでありました。

観音跡へ(こっちは解説がない) 跡地 反対側,地蔵院跡 地蔵院跡の解説 のぼる時間も気力もなく 地図によっては「堂跡」


 さて,さらに進もうとしたところ……
 ここにきて,まさかの通行止め!!見ようによっては車両のみ通行止めで,歩行者は立ち入りOKともいえそうなのですが,奥を見ると作業をされている方がおり,邪魔したら悪いな、と思って退却であります。ああ,時間が……。

 さて,退却は慎重かつ迅速に行わなければならないのは世の常。というわけで,慎重かつ迅速に,早い話が死にかけない程度に小走りで元来た道を戻ります。

 そして,途中清兵衛門跡の写真を撮りつつ,やってきました相良神社。いやまあ,相良家に思い入れがある訳じゃないんですがね。一応城跡の神社はお参りして帰るのが常なのであります。

清兵衛門跡


 神社は静かな神社でありました。シンプルな人吉城に合ってますな。
 で,お参りを終えて,中世原城に向けて若干坂を上ったのですが,時間的に危険水域っぽかったので折り返して再度退却。無駄に体力を消耗した中世原城攻略戦なのでありました……。ご登城は計画的にね。

蓮池と橋 鳥居 境内に小便をしないように!
拝殿 力石 工事中


 というわけで,あとは人吉駅に向けてひたすら歩くのみであります。
 胸川対岸を歩いていると,大手門や長櫓の解説があったのでとりあえず写真撮影。というか,ここに解説を置かれても,見ない人の方が多いんじゃ……。それとも,本来の観光ルートはこっちを歩くのでしょうか。

大手門現存時の油絵 解説
平成元年の建立
大手門跡 長櫓 長塀
長櫓の解説 隅櫓の解説。明治9年までは存在してたんですね。 下流部分から大手門方向 隅櫓 下流部分から大手門方向2


 そして,もう1つ気になっていた神社,老神神社に到達。時間がないので慌ただしく参拝しないと行けないのが残念至極でありますが,それでも一応解説には目を通します。
 なんと!ここにも西南戦争の痕跡が。人吉の奥深さを感じます。西南戦争についてもっと勉強してから来たら面白かったんだろうな〜。ただ,時間切れの度合いが進んだ可能性もあるけど。

老神神社 鳥居 淡島神社略記 鳥居のくぐり方
これを取りつつ鳥居本体の写真を撮り忘れたんですが,
たぶん背の低い鳥居だったんではないかと推察
淡島神社 平成3年の解説
おそらく県教育委員会の手による
由緒書 老神神社 八角形の石灯籠
いままで全く意識したことが無かったのですが,どうやら珍しいらしい
意識していないので,当然青井阿蘇神社のどこにあったのかなんて気にしてません
吉田神道と関係が深いらしいですが…吉田神道についてそもそも分かってないのです
本当に八角形です 拝殿 天満宮には西南戦争の弾痕があるらしい 天満宮
弾痕がどれなのか,さっぱり……
どこか1カ所くらい矢印つけてくれてもいいのに(←お馬鹿観光客目線)


 てなわけで,珍しい灯籠やら西南戦争とのつながりの確認やらがあり,行ってよかった老神神社。
 しかし,時間がないので役へ向けて慌ただしく進むのであります。ここまできて何やってんだか。

隅櫓と長塀 人吉城方面 与謝野鉄幹・晶子訪問之記 九日町夫婦ゑびす 由緒書 日本一安い
初乗り270円タクシー
ほんとに安いな


 というわけで,なんとか13時50分に人吉駅に到達。ここからさらに慌ただしく,駅の反対側にある大村横穴群を見に行きます。せっかく場所が分かったんだから見に行かないともったいない。慌ただしい旅行こそ日本人がやる旅行なのであります。わっはっは。
 てなわけで,テンション高く大村横穴群。
 もっと近くから見られるのかと思ったら,遠くから眺める方式でした。どおりでネットを見てもあまり注目されてない上に遠くからの写真ばっかりなわけです。ですが,時間がないのでこれだけでむしろ助かった!

跨線橋からの眺め
こういう眺めは大好きです
こんな感じに,階段を上って展望台から崖を眺める方式
解説
大正10年に国指定遺跡になってるらしいです。由緒正しい遺跡ですな
引用されている調査報告書が1984年のもの,ってことは,たぶんそれ以降皆様の興味と予算が追いついてこないんでしょう。
こんな感じ
中を見られないのでちょっとつらいです。まあ,見てもたぶん空洞があるだけなんだろうけど。


 そんなわけで,急ぎ足で大村横穴群を見て,慌ただしく切符を買って電車に乗り込みます。14時発の列車に間に合いました。

 ところで。この列車。一勝地とかなかなか面白い駅名の駅を通ることに加え,球磨川の景色が素晴らしいです。いかんせん窓ガラスが邪魔なので写真的にはイマイチですが,疲れたので寝ようと思って乗り込んだのに結局寝ずに(本も読めずに)終わりました。

一勝地 車内 球磨川


 そんなわけで,八代であります。

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