ミツノスミトモ

1.三津競馬場跡地

 三津探訪後半戦です。
 三津といったら,皆様,何を思い浮かべますか?はい,健全な皆様は,三津競馬場跡地を想起するのではないかと思います。
 不健全な私は,残念ながら三津競馬場を想起するのに時間がかかってしまい,結局三津競馬場跡地を巡るまでに時間を要してしまいました。でも,ようやく来ることができました。わーい。
 で,情報は例によってこちらの廃競馬場マップ様に全面的に依拠しております。せっかくだから登記くらい取ってみたらどうか,と思わないでもないですが。また,これも毎度お世話になっている日本の何処かで様によると,コース幅員は21mで左回り。今の道路の広さが頭をよぎっちゃう,ちょっと分かりづらい幅ですね。

 で,全面的に依拠しながら,おおよそのコース跡地を動きます。一番分かりやすいのは1コーナーの形状。これはくっきりと残っています。廃競馬場マップ様によると,この道路部分は実はコース跡地ではなく,コースの内側,内馬場の大外部分のようです。この部分に至る道で,旧馬場部分を横切る,ということのようです。



旧4コーナー部分と思われる,たつみ公園 4コーナーから直線へ
というのは多分この先
ここが一直線ではなく微妙に曲がっているのが,
旧競馬場の影響ではないかと勝手に妄想してみます
曲がってる部分

 で,最後の直線をまっすぐ進みます。内馬場にマンションが建っております。これはなんとなく紀三井寺跡地を思い出すところですね。まあ,平坦な土地が広く空いてそこを広く入手できたら,マンションなり病院なり,大きな建物を建てたくなるのが人情ってもんです。笠松みたいに農地にしてもね。

最後の直線 ここがスタンドの前あたり
なので,ゴールもこのへん?
スタンド前を抜けたあたり 振り返ります

 で,いよいよ,最も特徴的な残り方をしている第1コーナー跡地。再度確認ですが,今残るカーブの外フェンスが,馬場の内側のフェンス部分にあたると思われます。ので,道路上を歩いても旧コース上は歩けません。ですが,あらためて地図を見てみると,今残る特徴的なクランク部分こそが,馬場部分なのだと思われるところです。

 で,競輪でいうところの1C,競馬では1コーナーと2コーナーの中間地点で,道路は右に折れました。右に折れたので,ここで馬場と道路が再度交差する,という理屈です。
 で,そこから少し進むと小川を横切ります。競馬と小川の関係は分かりませんが,馬場の外側を小川が流れていた,と考えたらきれいにおさまるのではなかろうかと。

直線が終わります
(前に人がいるので
この先の撮影を遠慮しました)
クランクで振り返る この部分こそが,旧馬場部分なのではなかろうか このあたりの家が,昔の馬場の上に建っているのではなかろうか
コーナー状の道路を進んでいきます。道路は旧内馬場で,外側の家が,かつての馬場上に建っている,と妄想しておきます


振り返る 曲線部分終了
1〜2コーナーの中間地点に到達しました
右折します。ということは,このあたりで馬場と交差していることになるはず 小川

 さて,ファミマで水分と栄養分を補給して,後半戦です。
 2コーナー部分から,コースに復帰することになります。ので,2コーナーの出口辺りで馬場と交差することになるはず。

多分このあたりが2コーナーの出口 ここから右斜め前が2コーナー。
建ってる部分あたりが,2コーナーから直線に向いた辺りだと妄想します
   
向正面を進んでいきます 振り返る

 で,最後は3コーナー。斜めに向かってくる道路(183号)があります。おそらく,馬場はこれを踏まないように左に回っていったのではないでしょうか。県道ができるのと競馬が廃止されるのと,どっちが先だったのかまったく分かってませんけど。
 で,内側には斜めになってる土地があります。ここで斜めになっているのは,馬場がここでカーブしていたこととなにか関係があるのかもしれません。分からないのですが,関係があった方が面白いので,関係があったと妄想しておきます。



斜めに走る県道183号と交差します 県道を見る方向(3コーナーから向正面の直線を見る方向)からぐる〜〜っと見回す

 大通りに出ました。あとはもうなにもないんですが,ここから馬場方向に出る脇道があります。この道は確実に,旧馬場と交差していますね。どのあたりで交差してるかは分かりませんが,まあ写真に写ってる範囲でどこかで交差してたはずです。

脇道。どこかで馬場と交差してるはずです

 そんなわけで,三津競馬場跡地探索終了。
 もう少し町歩きを続けます。

2.厳島神社

 というわけで,三津駅を通り越して向かったのは厳島神社。
 この規模の神社なら,もしかしたら三津競馬場に縁のあるなにかがあるかも,と思ったりもしたのですが,結論から言うと,何も発見できませんでした。まあ,神社だし,紀三井寺みたいな奇跡はなんども起きんわな。
 ところで,ここの恵比寿様は「恵美須神」と表記されてました。寿老神なのか寿老人なのかに争いのあるところであるとして,寿老神説の人は恵美須神を恵美須さんと呼ぶような感じで寿老さんと呼んだりするのだろうか。なんか完全に的外れなことを書いてる気もするけど。
 それはさておき,ここにも和算の額が。松山だと伊佐爾波神社に大量の和算額があった記憶ですが,和算が盛んな地域だったのでしょうか。解説読まずに書いてるけど。

厳島神社 鳥居 神馬 神門 拝殿 牛と寿老神と恵美須様 算額

3.村上大明神と刈屋畑の戦い

 道を歩いていたら,急に鳥居と解説板発見。とても窮屈な鳥居とお社の配置ですが,これはもともとはもっと広い土地に建てられていたのでしょうかね??
 伊予の関ヶ原,刈屋畑の戦いについては完全に不勉強でありました。Wikipedia上は三津浜夜襲という表題がつけられております。村上元吉の戦死という結果は,かなり重大なものですな。この一帯の村上さんの多さと村上水軍の影響を考えると,もうちょっと扱いが大きくていいのではなかろうか。


4.儀光寺

 歩いていると,解説のあるお寺発見。あいにく山門は修理中でありましたが,立派な山門があって修復にお金をかけられるのだから,参拝して楽しめるのではないか,というわけでちょっとお邪魔させていただきます。
 お遍路さんの影響か,四国は寺院がしっかりとしていることが多いです。ふらふらと動く無計画旅行者にとっては,あちこちにしっかりした(旅行者的に楽しめる)お寺が多いのは助かります。

解説 社号標と工事中の山門 伊予ボケ封じ三十三観音
というのがあるらしい・・・
歴史を感じます 六地蔵 境内
本堂 岡田十五郎のお墓 大師様?

5.久枝神社と藤原純友の史跡

 さて,目的地に到達です。
 歴史の授業で誰もが習うのが,承平天慶の乱。平将門と藤原純友が地方で反乱を起こしたという日本史上極めて有名な事件です。大河ドラマの風雲虹でもおなじみですね。
 NPは関東人ですから,関東における平将門の影響力の大きさは嫌でも分かります。茨城国王神社には行ったことがありませんが,江戸の鎮守である神田明神や誰も怖くて開発できない首塚などは当然知っております。また,岐阜荒尾の御首神社などという,江戸と京都の中間地点でも祀られてしまう,まさに日本を代表する祟り神。
 その一方で,愛媛における藤原純友の影響力の小ささ。愛媛の観光というと,どこにいっても夏目漱石と坊ちゃんです。原作ではいい扱いではないマドンナでさえ大々的に取り上げられています。そして,あとは正岡子規と秋山兄弟。
 そりゃあまあ,保守王国愛媛県で,よりによって天皇陛下に弓を引いた没落官僚をどう扱えというのか,というのはまさにその通りなんですが,他方で全国的に有名で,大河ドラマにもなったわけでして,もうちょっと扱いようがあるんじゃなかろうか。

 で,久枝神社は多分2回目。前回は前回愛媛に居住していたときに来ました。史跡は脇に置いて,まずは久枝神社と十五郎神社。あれ,岡田十五郎ってどこかで見たような,と思ったら,ついさっき儀光寺でお墓を見てきたばかりでした。記念碑が建つどころか,神社にまでなってしまうとは……藤原純友と扱いが違いすぎません?やっぱり地元に根ざして活躍した人は違うのか。


 んで,ここにあるのは駒立岩と井戸,そして駒つなぎの松跡です。
 駒立岩は,田んぼの中に埋まっていたものを昭和51年3月になって有志でここに移動させた,とのことです。昭和51年ということは,大河ドラマ風と雲と虹とが放映されていた,まさにその年です。眉毛につばをペッペとしつつ,大河ドラマの時期になるといろいろな研究や発見がなされるのはよくあることでもあるので,ここもその1つなんだろうな,と思っておくことにします。にしても,田んぼの中の岩がどうして純友由来の岩だと伝わり続けたんでしょうかね。なんだかんだ愛されてたんじゃないのか。ペッペ。

こんな並び 案内 駒立岩 井戸 駒つなぎの松跡地に立つ松

 さて,先ほどの案内に示されていた,その他の史跡は3つ。うち,藤原純友公館跡地(←「公館」跡かと思ったのだが,よくよく考えたら「藤原純友公」館の跡地だな)はGoogleMapにも載ってますので,簡単に見つかります。近くの階段から丘の上に上っていけばOK。
 ところで,先ほどの案内では,藤原純友はここで亡くなったとされております。Wikipedia上の情報では,藤原純友はいつ亡くなったのか完全に不明なようでして,おそらくはいわゆる独自研究的なものなのではないでしょうか。ただ,それほど研究者が多いとも思えないので(愛大か松大でなにかやってないだろうか),もしかしたら地域の研究者がとんでもなく深い研究をしてる可能性もあるな。
 ところで,藤原純友を討ったとされる橘遠保,Wikipediaによると,「天慶7年(944年)2月6日、何者かに斬殺された」とのことなんですが,純友さんの死亡が不明な状態なんだったら,犯人明らかに純友さんじゃないですか。明らかに,と書くとあれだけど,そういう噂の一つでも立たなかったのかな?あるいは,純友なんかよりも対立の根深い政争があったんでしょうか。この人,楠木正成の祖先にあたるという説もあるレベルで超大物っぽいんですが,それにしては知名度低いですね。やっぱりもうちょっと藤原純友を盛り上げないといかんのではなかろうか。完全にどうでもいいけれど,「遠保」って名前を見ると,遠藤保仁を思い浮かべるのは僕だけでしょうか。
 その館跡は,非常に見晴らしのいい丘の上にあります。お墓が並ぶ区画に,そこからちょっと離れて碑が立っており,お墓に紛れないようにしたのか,一番見晴らしのいい場所に建てて純友公に尊敬の意を示したのか,その両方なのか,まあよく分からんです。館自体,どれくらい広かったかも分からんしね。

館跡には,この碑が立つのみ 宮前文化遺跡を守る会が平成7年に建立 ここからの眺め

 続いて,先ほどの案内で出ていた孀塚と鬼塚です。その場でGoogleさんに尋ねてみたところ,こちらのブログ様のおかげで,孀塚は場所の特定ができました。中央ハイツ集会所を目指せばいいようです。歩いて10分くらいか。もういい加減疲れてるけど,今行かないと人生で二度と行かない確信を持てるだけに,最後の力を振り絞ろう。
 問題は鬼塚。東仙台西麓の畑の中にある,とのことで,必死に検索してみましたが,場所が具体的に分かるものが見つからず(こちらのブログに写真はある)。しかたなく,孀塚が集会所というか公園的な場所にあったので,こっちもそうだろう,的に,それっぽい場所に行ってみましたが,見つからず。完全に不審者です。スーツ着てるから多少は不審者度が低いだろ,と自己満足してますが,「怪しいスーツ姿の男がうろついている」と通報されたら,事実なので困ってしまいます。

道中いやに西洋風な建物
マリベールスパイアという
結婚式場のようです
ベルモニーって葬儀だけでなく
結婚式もやってるんですね
孀塚!
裏側からだとまったく存在感がありません
集会所

 そんなわけで,山西駅から伊予鉄に乗ります。まだまだ見落とした名所は多数あるでしょうが,満点は無理だし,時間的にも体力的にもそれなりに限界です(だるま湯が終わってたのが体力的には痛い。時間的には助かってるのだが)。お疲れ様でした。

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